山の中腹、その一角に数棟の建物が点在している。
中央に構える一際大きな家──屋敷と呼ぶべきか――は、この土地の持ち主のもの。
―――仁季家。近隣の街々でその名を知らぬものはいない。
時に政を陰で支え、時に占術で人々を救い…。そうして代々、この地を受け継いでいる。
だが、それは表立った継承――仁季の宗家にはもう一つ、周知されていない「継承」があった。
澄んだ空気に、朝の陽光(ひかり)が降り注ぐ―――。
屋敷からは離れた林の中、古びた東屋風の建物が佇んでいた。周囲はきれいに整地されており、その地面も
例外なく陽光に照らし出されていた。
この場所は2人の鍛錬場である。
――宗家の一人娘、蒼海(そうな)と、仁季に仕える柴内家の嫡男、巧夢(たくむ)。
いつものように朝の鍛錬を終え、帰路につく時間になっても、2人には未だ、その場を離れる気配がなかった。
この日は、何かが違っていた・・・・・・。
「わたしは仁季の跡継ぎとして育てられてきた。その為の生き方しか知らない。
知る必要も、ないと思っている・・・・・」
俯き、そう答える蒼海の姿が、巧夢の目には悲しんでいるかのように映った。
こんな蒼海は初めてだ。いつも真っ直ぐ、前を向いていた彼女だったはずなのに。
「いいのかよ・・・・それで。おまえ自身の気持ちはどうなんだよ!・・・・蒼海!」
ふっ、と蒼海は笑う。
「わたしのこと・・・・今もその名で呼んでくれるのは、柴内だけだな」
近親者は、蒼海の成長とともに、彼女を『次代』と呼ぶようになっていた。
巧夢だけが、今も名前で呼んでいる。周りから何度か窘められたが、それは変わらなかった。
巧夢は呟くように、
「おまえの・・・・名前だろ・・・・・・・」
「・・・・・・柴内?」
「おまえは『蒼海』って名前の、一人の人間だ。そうだろ?!おれは・・・・『蒼海』の
本当の気持ちが知りたいんだ・・・・・!」
巧夢は、蒼海の小さな肩に掴みかかった。
一瞬、驚きを見せた蒼海だったが、すぐにいつもの顔つきに戻る。
「柴内、今更それを言っても仕方のないことだ。これもわたしの運命(さだめ)・・・・・、受け入れるだけだ」
「蒼海・・・・・・いつもそうやって感情を殺して・・・・・。辛くなかったのか?!」
「・・・・・?」
「おれは・・・・・・、蒼海が手の届かないところへ行ってしまうのは嫌なんだ。
この手でずっと、守っていたい・・・・・!」
巧夢の頬が、少し紅潮していた。蒼海はじっと、黙ったまま。
「・・・・・でも蒼海は違うんだな。・・・・・運命、か。やっぱり、逆らえないものなのかな・・・・」
自嘲気味にそう言って、巧夢は背を向ける。そして背中越しに、
「なぁ。ひとつだけ、頼みを聞いてくれるか?
・・・・・もう一度、昔みたいに、おれのこと名前で呼んで欲しいんだ」
二人の間に沈黙が流れた。
幼い頃は、互いの名で呼び合っていたはずだ。いつまでだ?いつからだろう?思考が交錯する。
そう・・・・、二人の関係が、主と警護役に変わった時だ。
暫くして、蒼海が口をひらく。
「そ・・・・・それは・・・・・、だめだ・・・・・・・!むりだ・・・・!」
完全拒否か、と、諦めて振り返った巧夢の目に、信じられない光景が映った。
蒼海の頬を伝って落ちる、あの透き通った宝石は何だろう。
必死で堪えているようだが、次々と溢れ、落ちて行く。
涙だ。母親を亡くした時以来の、涙。
あの日より後、感情を殺してきた蒼海の、なみだ。
巧夢は思わず、蒼海の頭を抱き寄せていた。
すると、巧夢の胸の中から微かな声が漏れてきた。
「・・・・・た・・・ぅ、だめ・・・だ・・・・、それを言ってしまっては。私自身の・・・・制約、なんだ・・・・・」
感情を殺すため、蒼海は制約をかけた。名を・・・・・、巧夢の名を呼ばないこと。
それが、互いの為になると、自身に言い聞かせて。
生まれ年が同じで、共に過ごす時間が多かった。蒼海にとって、巧夢の存在は掛け替えのないものに
なった。
だが、自分が宗家を継ぐ以上、仁季の仕来たりからは逃れられない。
『継承者が女子の場合、其の伴侶は、当主に依り選定を行う』
では。いずれ、巧夢と会うことも儘ならなくなる。
それならば、いっそのこと───。
苦渋の決断だったのだ。
それ故に、固かった意志。
だがしかし、その意志は今、風に揺らめく灯火のようだった。
ひとたび、強い風が吹けば消えてしまいそうな、
危うい、揺らめき。
そして、それは突然やってきた。
「ここを・・・・、出よう、蒼海」
蒼海の耳元で、巧夢が囁いた。
「・・・・・必ず、守り抜く。だから・・・・・傍に居させてくれ。
蒼海の、傍に居たい」
溢れ落ちる宝石は、輝きと勢いを増した。
完全に、箍が外れた。
「わたしは・・・・・っ。わたしも・・・・一緒に居たいよ・・・・。たくむ・・・・・っ!」
灯火が、消えた。
――END――